森晴秀先生年譜(文責:神戸大学教授 石川慎一郎)
2019/8/14
このページでは,筆者の恩師である故・森晴秀博士の著作や研究を「教え子」の視点からご紹介しています。筆者の研究室には,生前に遺贈を受けた森先生の本や書き物がたくさん残されていますが,現在,段階的に電子化作業を進めており,その一部をここに公開しています。本ページは不定期に更新されます。
※著作権について
森先生の書かれたものを電子化・公開することについては,森先生の令夫人より全面的な許可をいただいております。公開にあたっては,出版社などの権利侵害が起こらないよう配慮していますが,万一,問題があれば石川(iskwshin@gmail.com)までご連絡ください。適切に対応させていただきます。
森晴秀先生の略歴と主要著作紹介
凡例:●研究論文等,〇エッセイ等,■石川コメント
注1)先生の履歴関係の情報については,森晴秀(2005)「七十にして矩をこえられず」(石川慎一郎他(編)『テキストの地平:森晴秀教授古稀記念論文集』pp. 565-581(英宝社,2005年3月刊行)他を参考にしています。ただし,書誌情報については,新たに現物との照合や国立国会図書館データベース検索等を行い,上記での誤記と思われるものは修正してあります。
注2)先生は生涯に膨大な量の著書・論文等を発表しておられますが,以下では,筆者の考える「森先生らしい」業績を数点選んでご紹介しています。
1933年(0歳)
大阪市北区天満橋で生まれる
1952年(19歳)
大阪市立松ケ枝尋常高等小学校・大阪府立四条畷中学校・大阪府立寝屋川高等学校を経て神戸大学文学部に入学
1956年(23歳)
神戸大学文学部卒業。京都府立河守高等学校(現在の府立大江高等学校)教諭
●「ロレンス『虹』の文体」『神戸大学学園論叢』No. 1
1957年(24歳)
●森晴秀(1957)「語学雑談:日本に於ける外国語の学習」『山脈』(京都府立江守高等学校)1, 24-30. 【資料公開中】
■英語教師(そのほか美術も兼担)として赴任された河守高校で,森先生は校内雑誌「山脈」の立ち上げに参画され,本小論を寄稿された。当時,若干24歳の森青年は,自身のこれまでの研究と学修の成果を注ぎこみ,若い高校生を相手に今後の英語学習の指針を示している。この小論で,森先生は,1)外国語を学ぶということは言語の背後にある話者の思考を学びとることであり,表層的な英会話力だけを磨いても真の意味はないこと(「鬼のいない金棒」),2)英語学習には文法訳読アプローチとL2による音声重視アプローチがあるが,10代になって英語を始める日本人学習者には後者が合理的であること,3)ただし,英語において音声はきわめて重要で,音と文字が一体となって意味を形成すること(ここではコールリッジの詩の一節の音韻的効果が論じられる),4)文法は大事だが,文法の柔軟性を意識すべきこと(ここではいわゆる非文が実際には広く使われていることをイエスペルセンの文法研究に言及しつつ論じる)の4点を指摘されている。そして,最後の点に関して,英語には,文法ルールに逸脱する表現が多くみられることを指摘したた上で,「・・・非科学的なことばの一つである英語を我がものにするにも,「科学的学習法」と云ったはやりのことばには信頼し切れぬものがあろう。唯,勇猛邁進,辞引とにらめっこで,泣きながら読みまくるほか,道はあるまい」という熱い言葉で論を締めくくっておられる
1958年(25歳)
大阪大学大学院文学研究科修士課程入学。西宮市立西宮高等学校定時制課程専任講師。
■阪大の大学院に入った森先生は,おそらくは「勇猛邁進,辞引とにらめっこで,泣きながら読みまくる」の精神で研究を進められたものと思われる。森先生は,大学院入学後,同期生とともに,院生雑誌「Osaka Literary Review」の創刊に尽力された。1981年に出た,創刊20周年記念号の「創刊当時を思う」というエッセイの中でで,森先生は当時の思い出を語っておられる。なお,森先生と同期入学した5名の中のおひとり,齊藤俊雄先生は,後に,筆者も会員となる英語コーパス学会の会長を務められた方である。
1960年(27歳)
大阪大学大学院文学研究科博士課程進学。大阪府立今宮高等学校定時割課程教諭。
■今宮高校でも森先生は人気の先生だったようである。1961年の同校文化祭では,木下順二原作・森晴秀脚色によって,2年A組クラス演劇「三年寝太郎」が上演された。
1962年(29歳)
高野山大学文学部英文学科専任講師に就任。
■高野山大学にはわずか2年間の在職であったが,森先生は,この間,同僚の宗教学者との討論などを通して,仏教やインド哲学に対する造詣を深められる。この経験は,先生が,後に,様々な文学作品に共通して現れる根源的な「ビジョン」の研究を行う際,分析の視点を拡張する上で,大いに役立つこととなる。
1963年(30歳)
大阪大学大学院文学研究科博士課程単位取得退学。
1964年(31歳)
神戸大学教養部専任講師に就任。
●Haruhide Mori (1964) "Lawrence's Imagistic Development in The Rainbow and Women in Love." ELH (John Hopkins University Press), 31(4), 460-481. (カリフォルニア大学フォーク財団留学賞)
1965年(32歳)
UCLA大学院、オックスフォード大学留学 (1965.9-1966.8)
●森晴秀(1965)「D.H.ロレンスの表現形式」『Kobe Miscellany』No.3, 27-40.
1966年(33歳)
ケンタッキー大学客員助教授 (-1967.6)。比較文学を担当。
●報告書「国情を反映する英語指導法一イスラエル、南ベトナム、ナイジエリア、コロンビア、スーダン、韓国等の関係者の聴き取り」『English and Pedagogy』(三省堂)No.5
■1964年の春に着任。翌年度の秋から1年間留学し,留学期間が終わると引き続き交換教授として米国で1年間滞在して帰国。森先生が,本来の専門である英語・英文学だけでなく,英語教育・日本語教育・日本文学・大学制度論・カリキュラム論までを広く研究の射程に収めるようになったのは,30代で2年間の英国・米国滞在経験をしたことが大きく影響していると思われる。しかし,着任直後の教員が2年間も大学を留守にできたとは,当時の神戸大のおおらかさを感じる。
1968年(35歳)
神戸大学教養部助教授に昇任。
■講師で着任して4年後に助教授昇任というのは一般的な話だが,その4年のうち2年間留守だったことを思えば,森先生が教養部の若き期待の星だったことが推察される。森先生は母校でもある神戸大での教員生活をエンジョイしておられたようである。1972年に刊行された教職員組合の会誌において,森先生は,教員を集めて結成された「鶴甲剣友会」の紹介をされている。ちなみにここで紹介されている故・筧壽雄先生もまた筆者の恩師の1人である。
1974年(41歳)
●東田千秋教授還暦記念論文集出版委員会(編)森晴秀他(共著)(1974)『言語と文体:東田千秋教授還暦記念論文集』大阪教育図書
●森晴秀他(1974)「文体論の可能性」『文体論研究』21, 18-60.【資料公開中】
■森先生は一義的には英文学者であるが,テキストの機能や構造を言語学的に分析する科学者の眼もお持ちであった。かつて文体論学者の東田先生や山本忠雄先生の指導を受けたという背景もあり,はやくから文体論研究も手掛けておられた。1974年の紀要論文は,神戸大学で開催された日本文体論学会シンポジウムのまとめである。それから44年後の2018年,今度は筆者がホストとなって同じく神戸大で日本文体論学会第144回大会を開催することとなったのは奇遇というほかない。
1975年(42歳)
●森晴秀(1975)「上昇と下降一ロレンス、フォースター、ウルフ、ハクスレ一等における認識の型について」『近代』No. 50(神戸大学)
■森先生らしさが横溢している私の好きな論文。日本の英文学者は,特定の作家のみを生涯かけて研究する傾向があるが,森先生はそうした姿勢を批判的に見ておられた。この論文で,森先生は,英文学史上の4名のビッグネームを一気に論じることで,個人作者研究という英文学の伝統的研究スタイルを打破しただけでなく,高野山大学時代に研究された古代インド哲学や日本の古典文学までをも視野に入れて議論を進めることで,英文学という研究の枠組みをも見事に打ち砕いている。先生は一貫して「枠をはみ出る」研究者であった。
1977年(44歳)
●共著書『作品と読者』(D.H.ロレンスの文体と印象派絵画)(前田書店)
■森先生は,セミプロの画家としても活躍された。若き日に講師を務めた河守高校では,無免許で(本人談)美術の授業も教えておられた。後には,石阪春夫画伯らと親交を深め,個展の開催や,展覧会への出品,市民絵画教室の講師も務められた。
1978年(45歳)
文学博士号取得(大阪大学)
文化交流誌『道』(山口書店)編集主幹就任(-1980)【資料公開中】
●単著書『ロレンスの舞台一長編小説の文体と構造』(山口書店)【資料公開中】
■45歳で,『ロレンスの舞台』という大著を出版され,博士号を取得。今でこそ珍しくない博士号だが,この時代,文学博士号の取得は困難を極めた。森先生もさぞや喜ばれたことと思われる。また,京都の老舗英語系出版社であり,文化事業にも熱心だった山口書店の三宮庄二社長(1936-2018)と親交を深め,森先生を主幹として,日本文化を海外に紹介し,海外文化を日本に紹介する雑誌が創刊された。誰に書かせるか,どうまとめるか・・・ 研究プロデューサーとしての森先生の才能が遺憾なく発揮される新しい舞台となった。初号には森先生の友人の一人であったプリンストン大学のアールマイナー教授も寄稿しておられる。
1979年(46歳)
神戸大学教授(文学研究科、教育学研究科兼担)
■語学(だけ)を教えさせられる教養部の教員にとって,専門科目担当と大学院担当は悲願とされる(筆者も同じ立場だったのでよくわかる)。博士号取得という顕著な業績により,この年,教授昇任と大学院担当が同時に決まったことと推察される。文学研究科の併任は後に解除されるが,教育学研究科での指導は退職まで続けられ,多くのすぐれた教師・研究者を輩出された。
1980年(47歳)
●森晴秀(1980)『現代英米文学セミナー双書11 D. H. ロレンス』(山口書店)【資料公開中】
■当代の一流の研究者を集めて企画された英文学解説シリーズの1冊。日本に多数存在するロレンス研究者の中で,ロレンス巻の著者に選ばれたのはやはり森先生であった。先生は,幅広い領域の研究をてがけられたが,コアの研究分野では常に我が国の英文学研究の先端に立ち続けておられた。1975年に出た神戸大学の教養部の広報紙に,森先生は「専門バカと総合バカ」という面白いエッセイを寄稿しておられる。当時先生は神戸大学教養部で,様々な分野の教員が集まって1つのテーマのもとにリレー講義を行う「総合コース」を主宰しておられた。その経験をふまえ,森先生は,狭い自分の専門分野しかわからない「専門バカ」と,幅広いことを知っているが理解の程度が浅い「総合バカ」の両方を切って捨て,専門も総合も両方わかる人材養成の重要性を指摘しておられる。それを身をもって実践されていたのが森先生自身である。
1982年(49歳)
ニューハンプシャー大学客員教教授 (-1983.6)。「20世紀英文学」「比較文学」「日本語・日本文学講義」を担当。
●森晴秀(1982)『神戸を語る えとらんぜ:森晴秀対談集』(神戸新聞出版センター/のじぎく文庫)
■神戸大との交換教授制度により,3回目の在外研究。また,『神戸を語る えとらんぜ』は,森先生が神戸にゆかりの著名人を招いてインタビューする新聞企画をまとめたもの。森先生は,象牙の塔に閉じこもる英文学者ではなく,良い意味での「文化人」であり「教養人」でおられた。最近ではこういう研究者は少なくなった。
1986年(53歳)
●森晴秀(1986)「アメリカの大学における文章表現の授業一日本の大学への適用をめぐって」『一般教育学会誌』8(1)
■すでに述べたように,森先生は英語教育や日本語教育にも強い関心を持っておられた。本論は,そうした先生の関心のありようをよくうかがわせる。同じ年に,森先生は,神戸大学日米文科系学術交流委員長の立場で,学内の「国際交流センターニュース」誌に,「日本語・日本文化センターの設置を」という一文を寄稿しておられる。この文章の中で,森先生は,神戸大学の大学院に日本語教師養成コースを作るべきではないか,と主張しておられる。時代の先を見据えた卓見である。ただし,この森先生の構想が現実になるには,その後,30年ほど待たなければならなかった。現在,筆者も所属する神戸大学国際文化学研究科の「日本語教師養成コース」の源流に恩師森先生がおられたことの不思議を改めて感じずにはいない。なお,文章の中で言及されている砂川有里子先生(元神戸大教員,後に,筑波大学名誉教授)と筆者は,後に,一緒に本を書くことになる。これもまた縁である。
1987年(54歳)
神戸大学教養部教授(西洋文学担当)に配置換え。
●森晴秀(1987)「ヴァージニア・ウルフ一俳句一そしてジョルジュ・スーラ」『ジャポネズリー研究学会会報』6, 10-18.
■教養部の語学教員にとって,語学担当を外れることは(多くの場合)慶事である。尊敬する川端教授の後を継いで西洋文学講座担当となったことで,森先生の比較文学的・汎文化的研究はさらに促進される。ジャポネズリー会報に載った論文は,英文学・国文学・絵画を並べて論じる力作で,既に紹介した「上昇と下降」(1975)とともに,最も森先生らしいと筆者が感じる論文の1つである。ちなみに,認知言語学では,人種が変わっても,言語が変わっても,人間には共通の物の捉え方が存在すると考え,それを「認知パタン」と称する。森先生の活躍された時代に認知言語学の考え方は普及していなかったが,森先生の生涯の研究は「認知文化論」とでも言うべきものであったように感じる。
1988年(55歳)
●森晴秀他(著)(1988)『イギリスの現代小説』(本人担当部:「Mrs. Dalloway覚え書き」) (東海大学出版会)
■この年,筆者が神戸大学文学部に入学。1952年入学の森先生から見ると,36年若い後輩ということになる。筆者は入学後すぐに森先生の授業にほれ込み,森研究室の「押しかけ私設助手」となる。この本で,森先生は,「Mrs. Dalloway覚え書き」という論考を発表されたが,聴講を許された大学院の授業でも,先生はヴァージニア=ウルフのこの作品を取り上げて熱心に講じておられた。のちに筆者は,森研究室の鍵を預けられ,先生の研究や授業のお手伝いを全面的に任せられるようになる。
1991年(58歳)
●日本文体論学会(編)『文体論の世界』(本人担当部:「イギリス・アメリカの文体論/文献解題」)(三省堂)
■森先生の数ある業績の中では,さほど目立つものではないが,個人的には,文献集め,原稿のワープロ打ち込み,校正を全面的にお手伝いさせていただいたこの本は深く印象に残っている。こうした書物では異例のことであるが,森先生は,まだ学部生にすぎなかった筆者の名前を助力者として本に記載してくださった。小さい文字ながら自分の名前を本屋で見つけたときの筆者の喜びは,その後,自身も先生の後を追いかけて研究者を志すはっきりした動機づけとなった。
1992年(59歳)
神戸大学教養部改組・国際文化学部新設に伴い「神戸大学 大学教育研究センター」に移籍。
●森晴秀(編)(1992)『世界の教育・日本の教育:日本の教育をよくするために』(山口書店)[上月財団より1,500万円の資金提供を受け,各国英語教育を調査] 【資料公開中】
■大学設置基準の大綱化(教養部を廃止してよいことになった)を前に,神戸大学では教養部をそっくり専門学部に転換する一大プロジェクトが進行していた。森先生は学部新設の企画立案や文部省との交渉で主導的立場を取られたが,国際文化学部には移らず,新設された大学教育研究センター(現在の神戸大学大学教育推進機構)に移籍され,研究部長の重責を務められた。米国の大学制度を熟知する森先生は,助成金を得て海外の教育調査を企画・実施し,上記書籍の形で世に問われた。現在,筆者がこのセンターの後継組織に属していることを思うと,森先生との深い縁を改めて感じる。
1993年(60歳)
神戸大学を早期退職。広島女学院大学文学部教授に就任。
●森晴秀(1993)『駒子の唇一絵と文』(山口書店)
■当時,神戸大学の定年は63歳であったが,森先生は定年を待たずに1993年の3月で神戸大学を退職された。筆者は1992年3月に学部を,1994年3月に修士を卒業したので,ある意味,「同時卒業」のようなことなった。その後,森先生は,強く請われて,広島の伝統あるキリスト教系女子大学に転籍され,同大学の大学院課程の整備に尽力されることとなった。
この年に出た『駒子の唇』は,「美しい地の蛭の輪のやうに滑らか」と描写される,川端康成の「雪国」のヒロイン駒子の唇を指している。森先生は,川端の原作と英訳版の当該箇所を比較し,蛭というイメージが日英で異なることを指摘しておられる。英文学者として,文体論学者として,さらには,比較文学者としてキャリアを積まれた森先生らしい一冊である。
この年に森先生は「新制作展」に油絵を初出展。以後,毎年出品を続け,隔年で個展も開催。森博士は同時に森画伯ともなられた。下記は,1993年11月にポートピアホテルで開催された先生の個展で筆者が撮影したスナップ(11/18の日付あり)。冒頭の写真で,森先生は出たばかりの『駒子の唇』にサインを書いておられる。2枚目の写真の中央にいるのは神戸大の筆者の同期生。3枚目はかやぶき小屋を描いた先生の作品である。
1994年(61歳)
●森晴秀(1994)「遠近法:絵画と文学,あるいは幾何学について」『Kobe Miscellany』20, 1-17.【資料公開中】
■最終講義をまとめられた論文。タイトルからして,森先生らしさのあふれる好論である。この論文で,森先生は,作者が全知全能の神として作品に侵入し,登場人物の視点を絶対的にコントロールする伝統的なスタイルに対し,20世紀の英文学では,作者が作品から後退し,多様な登場人物の視点が並列化・多元化され,個々の登場人物の「意識の流れ」がそのまま記録されるようになったと述べている。そして,こうした動きが,絵画作品において,三次元的な奥行きを与える遠近法が次第に衰退したことと通底していたのではないかと指摘している。まさに卓見と言うべきであろう。
1995年(62歳)
広島女学院大学大学院文学研究科長・学院評議員に就任 (-1998.3)。日本ロレンス協会会長(-2000年)。
●森晴秀(編)(1995)『風景の修辞学(リコリチュール)―英米文学における風景や情景 その描写の謎を探る 』(本人担当部:「情景描写の思想と文体-G.チョーサーからM. ローリーまで」)(英宝社) 【資料公開中】
■1995年に大学院研究科長になった森先生は,広島女学院を英文学研究の最先端の研究拠点とすべく,当時の英文学界をリードする著名な研究者を客員教員として呼び集め,文字通り,英文学研究の「ドリームチーム」を結成された。また,日本ロレンス協会の会長として,広島での全国大会を成功裏に実施された。また,退職記念論集として,『風景の修辞学』が刊行された。アール・マイナー教授はじめ,錚々たる内外の研究者に交じって,修士を終えたばかりの筆者が執筆陣に加わっているのは,これもまた,森先生のやさしさによる。
2000年(67歳)
広島女学院大学特任教授を退職。京都女子大学文学部契約教授に就任。
2001年(68歳)
テキスト研究学会創設。初代会長に就任(-2004.3)。
■森先生は,当時の英文学研究の窮屈さ,とくに学会の偏狭な権威主義や形式主義に古くから不満を持っておられ,「新しい自由な学会」を創設するプランを温めておられた。相談を受けた筆者は,学会費の大部分を占める紀要印刷をオンライン化してしまえば,学会費を無償化できるだけでなく,それに伴う事務作業も省略でき,結果として研究に専念できるのではないか,といった提案をさせていただいた。森先生はこのアイデアを評価され,会費無料・オンライン紀要・質疑時間の確保といったコンセプトの新学会が創設され,会誌も刊行された。テキスト研究学会は,現在も活動を続けており,若き英文学研究者の登竜門となっている。
2005年(72歳)
●石川慎一郎他(編)・森晴秀他(著)『テキストの地平:森晴秀教授古稀記念論文集』(英宝社)(本人担当部:「七十にして矩をこえられず」pp. 565-581)【資料公開中】
■森先生が70年の歩みを自ら振り返られたエッセイ。我が国を代表する英文学者でありながら,森先生は,エッセイの冒頭で,いきなり「私は自分を学者だとは思っていない。英語の教師だという自覚しかない」と述べ,最近の文学研究が借り物の文学批評理論を振りかざすものに堕していることを叱り,文学研究の正しいあり方を示しておられる。先生の人生に影響を与えた多くの人物について述べた心に残る文章である。中でも森先生の畏友,アールマイナー教授との交友録は胸を打つ。
2007年(74歳)
京都女子大学を退職。
2009年(76歳)
新制作協会(絵画部)協友に推挙(※複数回の入選で推挙される)
2010年(77歳)
●森晴秀(2010)『デイヴィッド・ロッジの小説世界―意識のポリフォニー、堕とされる権威』(音羽書房鶴見書店)【資料公開中】
■77歳になって単行本を上梓。扱ったのは,文芸批評家でもあり,小説家でもあるD. ロッジ。英国文学の(隠れた?)伝統の1つである「軽さ」を体現した作風で知られる。重厚長大型文学の代表選手とされるD. H. ロレンスを長く手掛けてきた森先生が,最後に目を向けたのがロッジであったというのは,いかにも「枠」を嫌う先生らしい。一般に,日本人が英文学について本を書くと,私的な読みの開陳といったレベルにとどまることが多いが,本書の巻末には,なんと,森先生が英国まで飛び,アポを取って敢行した「著者インタビュー」が掲載されている(インタビューは森先生が京都女子大を退職された2007年の9月に実施)。かのロッジを相手に,<あなたはロレンスをどう思うか?>とずばり切り込む森先生の手腕は見事というほかない(思えば,森先生は若いころから新聞紙上などでインタビュアーの経験を積んでおり,インタビューの名手でもあった)。築き上げたものに安住せず,常に,面白いことを探して世界を股にかけて飛び回る森先生の最後の著作にふさわしい出版であった。
2012年7月7日ご逝去 (79歳)
■本項執筆時点において,森先生が逝去されてから,8年が過ぎた。(おそらくは先生の最後の)弟子の一人として,悲しく寂しい思いはもちろん強いが,筆者の研究室には,生前の森先生から譲り受けた本や資料がそのまま保管されている。洋書の片隅に書かれた若き日の先生のメモを眺めていると,先生を今まで以上に身近に感じるとともに,先生に恥ずかしくない教師・研究者であらねばと強く思う。師として,18歳の筆者に言語や文学の研究の面白さを教え,筆者を研究の世界に招き入れた森先生は,あれから30年以上を経て,今もなお,書いたものを通して,筆者を毎日叱咤激励してくれている。 先生の深い愛情と学恩に頭を垂れるだけである。