神戸元町ヤタナカオ洋品店

About

ヤタナカオ 
 かつて,神戸の元町商店街に「ヤタナカオ」という洋品店が存在しました。明治期晩年に初代中尾弥太郎氏が「中尾本店」として創業し,以後,創業者の名前をもじって「ヤタナカオ」と称するに至り,初代中尾弥太郎氏・二代中尾弥太郎氏・三代中尾吉志氏によって経営が続けられました。   「ヤタナカオ」は,1990年代に廃業するまで,100年近く,元町で輸入雑貨品(後には洋服)などを販売していました。「ヤタナカオ」は,単に海外の商品を輸入するだけでなく,海外業者と商品を共同開発するなど,明治から大正期の神戸のハイカラ文化の担い手の一つであったと言えます。
 このページは,神戸大学石川慎一郎研究室が,名古屋工業大学石川有香(旧姓中尾)研究室の協力のもと,個人的な関心の範囲で,同店および明治期の神戸の洋品文化史の記録と資料収集の目的で開設したものです(本ページの内容について大学は一切関係していません)。
 なお,古い時代のことでもあり,以下の記述には必ずしも検証できていない内容が含まれています。郷土史家の方などから誤謬の訂正や情報の提供をお待ちしています。また,同店にゆかりの品があれば収集させていただきたく,有償・無償での提供のお申し出もお待ちしています。※特に,各時代における同店の写真,包装紙,持ち帰り用バック,同店ロゴ入りの実際の商品などを探しています。 

このページの最終更新日 2017.9.19

問い合わせ先・情報提供先:神戸大学石川慎一郎研究室(iskwshin@gmail.com)。


資料の中のヤタナカオ


現在,以下の資料の中で,創業者中尾弥太郎氏およびヤタナカオへの言及を確認しています。

[1] 明治31年(1898) 「国民新聞」(9/9)の記事「邦人の自転車遠乗り(神戸東京間)(上)」で中尾弥太郎氏らの自転車旅行が紹介。
[2] 明治40年(1907)ごろ 栄屋商店販売の絵葉書(神戸元町四丁目)に「中尾本店」の店風景が掲載。
[3] 明治44年(1911) 「神戸商工録」に,中尾弥太郎氏の「西洋小間物雑貨店」が掲載。
[4] 大正12年(1923) 神戸新聞(2/19-3/12)の記事「我国広告界の趨勢」でヤタナカオのロゴマークに言及。
[5] 昭和6年(1931) 大阪毎日新聞(7/19)の記事「新商売往来『夜は九時限り』の新時代が到来」でヤタナカオ店主コメントが掲載。
[6] 昭和11年(1936) 「特別大演習観艦式記念」としてヤタナカオ製シルクハットが作られる(※同品は後にオークションに出品)。
[7]昭和36年(1961)KOBECCO(月刊 神戸っ子)8月号掲載の作家源氏鶏太氏によるコラム「神戸を語る」においてヤタナカオへの言及。

このページでは,これら7点について簡単にご紹介します。


[1]明治31年(1898年) 国民新聞に中尾弥太郎氏らの自転車旅行が掲載(弥太郎21歳?)

1898年(明治31年)9月9日付け「国民新聞」記事「邦人の自転車遠乗り(神戸東京間)(上)」
 当時の元町は西洋から最新の文化を取り入れ,いわゆるハイカラ文化が花開いていました。自転車もそうした文化の一つで,当時,神戸双輪会という,今でいうサイクリング同好会が存在しました。「国民新聞」には,神戸双輪会が神戸から4日をかけて東京まで自転車で移動したことを報じる記事が残されており,同会のメンバーとして,中尾弥太郎氏が言及されています。



以下,判読できない文字は「?」で示しています。また,句読点は適宜補い,文字は新字に変更し,一部はかな書きとしています。

邦人の自転車遠乗(神戸東京間)(上)
銀??れ白?飛べる神戸布引の麓の下に双輪会と称する自転車通の一団あり。会員は商館主人又は会社員等なるが会員の数,目下,50有余名あり。いずれも多年練磨したれば技?実に驚くべきものあり。
そのひとたびハンドルを握りて腰を屈するや,双輪,転々,一瞬時に,よく幾マイルの遠きに達し,その速さを疾風も?ならず。
されば須磨と神戸間を僅々12分間にて往復するが如き? かの会員のあえて珍しとせざるところなるが,今回,会員中の小川長三郎(24?),井村常太郎(?5),入江孝三郎(31),中尾弥太郎(21?),加納芳三郎(31)の5氏,邦人のいまだかって経験せざる神戸東京間の遠乗りを試みんと欲し,さる2日,午前6時,神戸を発し,苦万?を排して,ついに一昨6日,午後3時,首尾よく東京に到着し,京橋区宗十郎町の旅館「紅水屋」に投じたり。今,この遠乗りの先鋒たりし加納芳三郎氏について??たるところを左に記す(※以下略)。


 はっきりした証拠はないのですが,時代的に見て,また,「商館主人」であったことなどから考えて,記事に出てくる中尾弥太郎氏は,ヤタナカオ創業者と同一人物ではないかと推測されます。仮にそうだとすれば,創業者中尾氏の生年は明治10年(1877年)ごろということになりそうです。

 なお,上記の自転車遠乗りについては,国民新聞だけでなく,明治のスポーツ系雑誌『運動界』にも短報が掲載されました(※日本自転車研究会のウェブサイト上の「自転車資料年表」に言及)。『運動界』は日本体育大学体育史研究室の監修によって,1986年に大空社より復刻版が出ています。これは,1巻1號 (明30.7)から4巻3號 (明33.4)までをボックスに収めた体裁になっています。神戸大学附属図書館で現物を確認することができました。

 自転車遠乗りの短報が出ているのは明治31年10月5日に刊行された『運動界』第2巻第10号のp.22です。

 
出典:復刻版『運動界』(神戸大学附属図書館蔵)

この記事により,遠乗りが行われたのは,明治31年の9月2日で,東京への到着が9月6日であったことが改めて確認できました。なお,神戸・東京間は約520キロあります。弥太郎たち一行が,仮に,1日10時間(午前6時~午後6時,途中2時間休憩)走ったとすると,走行時間は48時間となります。この場合,移動の平均時速は11キロ程度。現在の自転車(一般用)の実質的平均速度が12~19キロ程度とされていることをふまえると,計算上,ほぼ,妥当な時間であったと思われます。なお,『運動界』という雑誌ならではですが,この記事の筆者は,事実を伝えるだけで終わらず,舟遊びや音楽遊びに興ずるぐらいなら,このような自転車遠乗りがさらに普及してほしいと述べています。


[2]明治40年(1907年)ごろ 栄屋商店絵葉書に描かれた「中尾本店」(弥太郎30歳?)

また,おそらく同時代に発行された絵葉書(元町三丁目栄屋商店)には同店の店構えが映っています。

絵葉書「神戸元町四丁目」(石川慎一郎研究室所蔵:2016年8月にオークションで取得)

左側の手前を拡大すると以下のようになります。

同上(拡大図)

横書き看板の文字:電話四三九番 中尾本店 NAKAO HONTEN 欧米雑貨 (※中尾の上部の英文字は判読不可
縦書き看板の文字:欧米雑貨 商標 中尾本店 (※右端の文字は「?野新?」判読不可)
横書き看板の中尾と本店の間にロゴらしきものがありますが,図像がはっきりとは確認できません。
なお,この絵ハガキは四丁目のものとされていますが,実際には三丁目の西側(四丁目寄り)にあったのではないかと考えられます。


[3]明治44年(1911年) 『神戸商工録』に中尾弥太郎氏の西洋小物雑貨店が掲載(弥太郎34歳?)


明治44年刊行の『神戸商工録(The Kobe trade directory)』には,中尾弥太郎氏の「西洋小間物雑貨店」への言及があります。同資料を根拠として,元町商店街の公式ウェブサイトでは,明治44年当時の商店街の商店名を復元して公開しています。


出典:元町商店街ウェブサイト内History「夢街道」2009年4月号「明治四十四年ごろの商店街(五)」



[4] 大正12年(1923) 神戸新聞の記事でヤタナカオのロゴマークに言及(弥太郎46歳?)

 神戸新聞(2/19-3/12)の記事「我国広告界の趨勢」には,ヤタナカオのロゴマークへの言及が認められます。この記事は,神戸高等商業学校教授 須藤文吉氏が執筆したもので,神戸大学附属図書館がアーカイブする「新聞記事文庫 商業(4-078)」に含まれています。
 須藤氏の記事は記事というよりは論文のようなもので,全体は「一 ポスターと電車広告」「二 新聞広告の効果」「三 発売元と小売商の広告」「四 見本戦に就きて」「五 有効なる実物本位」「六 パンフレットの頒布」「七 包装紙の改善」「八 包装広告の効果」「九 包紙の種類」「一〇 包紙の計算」の10章構成となっています。
 このうち,「九 包紙の種類」において,須藤氏は,「現に自分の手や本校学生の手で蒐集した数百の主要商店で調製した包紙」のアーカイブを時系列的に調査した結果をふまえ,商業広告のタイプを古いものから新しいものへと以下のように分類しています。

(甲) 店名を表示したるもの 
(乙) 販売品を表示したるもの 
(丙) 美化したる包紙(花模様,友禅模様など) 
(丁) 実用化したる包紙(東京地図や双六などを印刷) 

 そのうえで,乙:販売品を表示したるものの実例として,ヤタナカオのロゴに言及しています。


出典:神戸大学附属図書館デジタルアーカイブ新聞記事文庫

上記には「ヤタナカオ商店の如きは販売品と商号とを組合せたる巧妙なる包紙を用いつつあるはその例である」とされています。当時のヤタナカオが,輸入の帽子(そのほかおそらくはハンドバックなど)などを販売していたことを考えると,そうした商品のイラストとヤタナカオないし中尾などの文字を組み合わせた柄であったと推測されます。これが,前述の絵葉書における「中尾」と「本店」の間にあったロゴらしきものを指すのかどうか調査中です。


[5] 昭和6年(1931) 大阪毎日新聞にヤタナカオ店主コメントが掲載(弥太郎54歳?)

 昭和に入ると,各地の商店街の経営にも様々な変化が起こります。昭和6年(1931)7月19日付けの大阪毎日新聞記事「新商売往来『夜は九時限り』の新時代が到来:伝統を誇る老舗の軒端にも射しそめた『商店法』の光り」は,当時制定された商店法を紹介しています。
 記事は以下のような内容で始まります。

問屋、小売店―「伝統」がその生命であるかの如き商店街にも時代の新しい光線が軒端を通して鋭く射しそめた、営業時間を午後九時までに制限しようという「商店法」が来議会に提出されようとするのだ、都市、農村を通じて幾十百万、殊に近代都市繁栄の表徴、東京は銀座、大阪は心斎橋、京都は四条通、神戸は元町―そこに花と咲く光りと商品の店頭美こそは都会人のあこがれでなくて何であろう―その商店街が夜の九時になると一斉に戸を閉じなければならない、光りが消え、ショーウインドが閉まる、商業労働者―いわゆる店員の労働時間を制限しようという主旨からここに日本の商店街に大きなエポック・メイキングの太い一線がグイと引かれることになるんだ、いままで夜半近くまで顧客を呼んでいた商店側にすれば二時間、三時間の商売時間が、そろばんから消えて行く、可なりな損失に違いあるまい、雇わるる店員にすれば、眠い眼をこすらなくて済むという至極結構な話、封建的徒弟制度の上にも革命的時期を劃するに違いないんだ、注文が殺到するそれぞれの商品シーズンに、問屋の小店員連が午前一時二時までも荷造に疲れ切っている例はざらにある、徒弟労働の合理化がこの商店法によって一新されるならば、大きな幸いであろう、ただ百貨店対小売商の問題が白熱化してゆく今日さなくとも減収にあえぎ、大資本の圧迫に押しつぶされんとする小売商店が時間的制限によるヨリ大きな惱みを如何にして解決しようとするか、興味ある問題の展開を見ることであろう


要は,当時の商店街は午後10時ごろまで営業するのがふつうだったわけですが,こうした現状に対し,労働者の権利保護の観点から,閉店時間を9時に統一する新法が検討されているというのが記事の背景です。そして,大阪の戎橋筋・心斎橋・道頓堀,京都の四条などの主要商店街の商店主と並び,神戸元町の商店主としてヤタナカオ店主のコメントも掲載されています。


出典:神戸大学附属図書館デジタルアーカイブ新聞記事文庫

元町でコメントを求めらているのはヤタナカオだけであり,当時にあって,おそらくはそれなりの規模と知名度を持った店であったことがわかります。


[6] 昭和11年(1936) 「特別大演習観艦式記念」でヤタナカオ製シルクハットが作られる(弥太郎59歳?)

 資料では,創業期の「ヤタナカオ」が扱っていたのは欧米雑貨とあるだけで,具体的にどのような商品を扱っていたのかは判然としませんでした。しかし,2013年2月17日に,オークションに当時のヤタナカオの商品が出品されました。以下の画像の出典は,すべて,Yahoo!オークション(出品者:r**7**,出品日2013年02⽉17⽇ 15時13分)のキャプチャ画像によります。著作権法の定めにより,出典明記の上,画像を紹介させていただきます(※万一問題がある場合は迅速に対処しますのでご連絡ください)。なお,このオークションへの参加を逡巡しているうちに,他の人に落札されてしまったのが,こうした記録を作ろうと思いったった原因の一つです。

 オークションでは「ヴィンテージ◆英国シルクハット◆神⼾ヤタナカオ帽⼦ ⽪製鞄」として出品されていました。


出典:Yahoo!オークション(2013/2/17出品)保存画面

注目すべきは,帽子の内側です。

出典:同上

 ロンドンのボンドストリートにあったGlyn & CoがKobeのヤタナカオのために特別に製造したであると記載されています。このことから,当時のヤタナカオが,単に完成品を海外から輸入するだけでなく,海外のメーカーと直接交渉して,オリジナル品を製造させていたことがわかりました。
 通常であれば,この帽子がいつの時代のものかわからないわけですが,今回のシルクハットには内部に記念のスタンプがいくつか押されていました。そのうちの1つは以下です(文字が読みやすいよう元の画像を加工しています)。


出典:同上

 上記より,この帽子が,昭和11年(1936年)10月29日に神戸沖で行われた「昭和十一年特別大演習観艦式」にちなんだ品であることが推定できます。Wikipediaの記載(2016年8月1日閲覧)によれば,この観艦式は船舶100隻(58万0,133トン)と飛行機100機が参加した大規模なものだったようです。
 なお,帽子の裏には同様のスタンプがいくつか押されているだけでなく,切手も貼られています。現在でも,記念切手などの発行時には,切手を台帳に貼って記念スタンプを押すことが行われますが,この帽子が特別な来賓客に贈呈する観艦式の記念品のようなものだったのか,あるいは観艦式の参加者が,神戸に来たついでにヤタナカオで帽子を購入し,記念として帽子の裏に切手やスタンプを押したのか,その背景は現時点では不明です。


[7] 昭和36年(1961) 作家源氏鶏太氏が神戸での行きつけの洋装店としてヤタナカオに言及

 神戸において1961年3月に発刊した「月刊神戸っ子」。同誌の8月号では,作家源氏鶏太(1912-1985,サラリーマン小説の先駆として知られる)がコラムの中で「ヤタナカオ」に言及しています。コラムの中で氏は東京でネクタイを買うと柄が他のひととかぶる危険性があるので,一点物を扱う「ヤタナカオ」でネクタイを買っていたと述べています(pp.10-11)。


出典:https://kobecco.hpg.co.jp/ebook/1961/196108/html5.html#page=15

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 「ところがね、大体、僕は大阪に友人が多い関係もあって,国際ホテルに泊まっても、大阪に出る方が多いんですよ。たまに女房の買い物のお伴をする程度だな。でも神戸に来たら必ず行く店が二軒あるんですよ。一つはセンター街にあるとんかつ"むさし"ですが,こんどなどは日参したほどのファンです。
 もう一つは元町三丁目の洋品雑貨の「ヤタナカオ」で目的はネクタイなんです。
 僕は,ネクタイだけは神戸で買うことにしてるんですよ。理由はね、銀座当りで買えば、何んだか自分と同じネクタイをしている人に、どこかでバッタリ出会うような気がするんだね。ところが神戸っていうところは、そこにしかない品を置いてる店が昔からありますね。だからそうした不安っていうのか、心配がないんですよ。それにいい物を置いていますからね。(後略)



おわりに


神戸は西洋文化の窓口として古くから開けてきました。ヤタナカオという1つの商店を切り口として,明治・大正期の神戸の商店文化や,西洋文化の受容の様子について明らかにできればと考えています。現在,神戸大学附属図書館の協力を得て,神戸高等商業学校(神戸大学の前進)当時に構築されたという当時の商店の包装紙コレクションの所在を調査していただいています。このページは継続的にメンテナンスしていきたいと思っております。